私のトランスジェンダーは「心の蓋を開けること」だと思う。蓋を開けて、心の底にたまった「湿った自分ボール」をつかんでは放出する活動なのだ。女性が自分の中にいると気づいて、心の蓋を開けて出てきたのは次の四つの自分だった。
最初に出てきたのが「ひとりぼっちの自分ボール」。自分の中の壁から外に出れず、自分を壁の中に留め、孤独に追い詰めていく。人の中へ入ることが人間固有の引力だとするなら、ひとりぼっちを自分に強いる自分は、反引力エネルギーをもっていた。出ようとするのに押さえつけられていた。
第二に「自己中心の世俗的なボール」。自分の世界に留まり、そこから世界を見ようとする。自分の考えに囚われ、視野が狭い。自己利益中心の自分と言い換えてもいい。世の成功を願いながら、それに無頓着な振りをする偽善的な自分である。このボールも負の放電をして心を重くしていた。
この湿った二つのボールを外に出すと、その次に出てきたのは「善人のボール」。善く生きたいと思う自分だ。悪いことをしない、正直を貫きたい、まわりの人を幸せにしたい。そんな正のエネルギーを帯電して引力に逆らわずに生きることは正しいと思えた。
これら三つのボールの底にあったのが「女性になりたい自分ボール」あった。他のボールを押し上げる力をもっていた。女性として生きたい。女のように姿も心もなりたいと思う自分。その理由がなぜなのかわからなかった。トランスジェンダーの先人に探しても見つからなかった。なぜトランスジェンダーというボールが出てきたのか?その理由を探し求めるのが私の使命であるとだけ悟った。
私にとってトランスジェンダーとは何か?「蓋を開ける」というのはどういうことか?
前者の問いかけは後にして、蓋を開けることとは、「理性を捨てて直感で生きる」ことだ。前回のブログで書いたが、夜寝床で発熱して苦しむ身体と心に向かって「熱よ下がれ」と問いかけて熱を降下させた体験を、「哲学の会(オンライン勉強会)」で望月先生に話すと、それは発熱で理性を失い、直感に従ったからだと説明してくれた。幽体離脱を体験するには理性を捨てて直感で生きることだという。それをひとことで表そう。
神の創造物として生きること。
誰もが創造物のひとつであり、本来誰もがもっている直感で生きることで、心も身体も動かすことができる。変えること、善になることができる。善になることでひとりぼっちの仮面を剥ぎ、素顔になれる。視野が狭い自分から離れることができる。人の中に入っていくことができる。
世に出たい、世俗的な成功を得たい、自分だけ抜きん出たいという欲望から離れることがえきる。私はずっと「作家になりたい」「書くことで暮らしたい」と思ってきたが、それは打算であり世俗である。蓋を開けた今、「降りてくるもの」を書くという心境になれた。降りてくれば書けるし、こなければ書かないまま死んでいく。
ではどうすれば「蓋を開ける」ことができるのか?
打算を捨て、自分の直感を信じること。映画「燃えよドラゴン」でブルース・リーがこう言った。「Don‘t think, Feel!(考えるな、感じろ)」。サッカーの本田圭佑の「リトル本田が囁いた」方に向かっていくことである。直感を素直につかむことである。
直感で生きるためにできることはなんだろう。
修飾を除くことである。ことばから飾りを取る。したいことのうわべの欲を除く。結論からすることを考えるのもいいだろう。整理整頓、断捨離もいい。降りてきたことだけをブログ(日記)に書く。自己PRや仕事のためのブログはもう書かない。
人は紙の表と裏で生きている。表とは理屈や論理、個の世界。裏は直感、場の世界。紙の表は「世俗」であり、裏は内的心理、神が司どる「場」である。
「場」とはなんだろう。哲学の会でこういう話もあった。松岡正剛と湯川秀樹の語り合いで、松岡が素粒子論の権威である湯川に「場とは何か?」と問うた。湯川は「LETTER」ということばで説明した。
「たとえばレターというアルファベットをタイプライターで紙に打つやろ。綴りはLETTERやから、隣り合うTはTと同じやな。離れたEとEも同じやな。そうしたら、それを一文字ずつハサミで切って、TとT、EとEの位置をひっくり返して並べても、もとと同じか?」と聞かれた。「読む上では変わらないですけど、置かれている紙片の位置は最初と違いますね」と答えると「そうやろ。それは同じではないんやな。そこには場があるからや」と返された。(『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』より)
目で読めばTもTも同じ、EもEも同じである。これは理性である。だが目を閉じて入れ替えたことを思うと、場が異なっている。湯川は「見えないものを感じろ」と言ったのではないか。理屈を捨てて直感に生きよ。そうすれば神意がわかり、人間の存在もわかり、なぜトランスジェンダーになったかもわかってくる。
私にとってトランスジェンダーとは、生きづらい世でそれでも生き延びようとして、人間の根底にある違いー男と女ーを越えさせようと「降りてきたもの」である。直感に従う生き方である。生存本能と結びついているから止められない。身体を危険に晒しても続けるしかない。
だが私たちは細胞分裂の果てに男性と女性に分かれて生を得たので、別の性には変わりきれない。変わりきれないから止める人もいる。週末女装やコスプレ、ドラアグクイーンのように、「敷居」を行ったり来たりすることで満足しようとする人もいる。私は今はXジェンダーというのか、ジェンダーレスというのか判然としないが、今は男性でも女性でもないところで生きたい。男でもあり女でもある均衡を目指すことが使命だと感じている。

最後に、場といえば西洋は「個」重視、日本は「家」である。日本では近年「個」が重視されてきた。自分はだれか、自分らしく、自分にごほうび。果てや個人情報保護で人の名前さえうかつに呼べなくなってきた。携帯やSNSに個が埋没して、つながりが希薄になった。人と人の共感の場が失われた。私は夫婦別姓賛成、同性婚賛成ではあるが、個を重視するだけではなく、「人の集合」も大切にすることが根底にあると思うのだ。



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